それぞれの復興 10 年~再生へ歩み続ける東北を行く 。 岩手編~|旅人:井門宗之

2021-03-05

およそ1年ぶりの旅であります。目的地は東北、岩手県。
正直「震災から10年」なんてこの旅日記で書く日が来るなんて思いもしなかった。
いや思ってはいたんだけど、もっともっと先の様な気がしていたのです。
でも自分の10年を振り返ったって色んな事があって。
(KIKI-TABIもレギュラーは一旦終了となったし)
きっとそれはこれを読んでいる皆さんも同じだと思うんだ。うん。
だから10年はあっという間なんだけど、全然あっという間じゃない。
被災地だった東北の方々にとっての10年間はどうだったんだろう。
もちろん時間はどんどん前に進んでいくから、年月は節目にはならないんだけど。
それでも震災から10年というこのタイミングで、
皆さんにはもう一度東北に思いを馳せて欲しいのです。

 

 

 

そうそう、これをどこに貼り付けようか迷ったのですが、この旅日記の冒頭にします。
KIKI-TABIが前身のYAJIKITA ON THE ROADだった時代。
僕らが初めて被災地を訪れた時の旅日記の冒頭です。
読み返しながらあの時の雰囲気や自分の気持ちを思い出しました。
かつての緊張感が文章からも伝わってきます。少しの間、お付き合いください。

 

 

 

以下2011年の旅日記冒頭より抜粋

 

東日本大震災から2カ月が過ぎた頃、YAJIKITA一行は東京駅にいた。
5月13日午後5時頃の事である。
東北新幹線の改札前は少し大きな声で話さなければいけない程、混雑していた。
あの震災後、この番組でも幾度となく被災地取材の声が上がった。
およそ8年の放送期間を誇る長寿番組である、今回の震災で被災された地域にも何度も足を運んだ。
(*過去のHP参照)
我々にだって出来る事が、何かあるはずだろう。
お世話になった方々に何かお手伝いは出来ないだろうか。
色んな事を、色んな手段を、考えた。
YAJIKITAは旅番組であって、報道番組では決して無い。
取材を終えた後に聴く人に何を残す事が出来るのか?
残った感情が少しでも光のあるものであって欲しい。
そして未だ震災で辛い想いをされている方がいる事実も、リスナーに忘れないで欲しい。
考えがまとまらない中、4月のある日、こんなニュースが舞い込んだ。
日本三景の一つ、宮城県松島で観光遊覧船再開
そのニュースを後押しするかの様に、東北新幹線の全線開通である。
沢山の人の想いを乗せて、新幹線が東北に向けて再び出発する事になったのだ。

 

ちょうど様々な所から【観光客の激減】【観光産業壊滅】等の言葉が聞こえてきていた。
復興までに時間はかかるだろう、だけど人が行かない事には何も始まらない。
観光が戻った場所には人も戻っていくべきなのだ。
そしてその後押しとなるのは、長く日本全国を旅してきたこの番組なのだ。
自分の気持ちが固まった。
旅でお世話になった我々の出来る恩返し、旅をすることだ。
そしてその場所に暮らす方々の想いを全国に伝えること。
この番組を聞いてくれたリスナーさんに「行きたい」と思わせる旅にすること。
5月13日午後5時の東京駅に集まったYAJIKITA一行は、そんな想いを胸に秘めていた。

 

以上

 

 

 

あの頃の自分に聞かせてあげたい。
「なぁ、お前が心の底から心配していた東北は、10年後に綺麗な街並みが広がってるよ」って。
「人の気持ち、人の力ってやっぱりすごいんだよ」って。

 

今回の旅は震災から10年が経った岩手県沿岸の旅。
番組自体は2週に渡ってお届けするので、旅の行程としては岩手県→宮城県となります。
「KIKI-TABIさんも相変わらずの強行軍だなぁ」とお思いのそこのアナタ!
そう、本来であればまずは東京から新幹線で盛岡、そこから陸路で沿岸部(約2時間半)、
更にそこから車で南下して仙台でオールアップ…という流れなのですが、
今回の旅はほぼ完成を迎えた最大の復興事業『三陸道』に沿って沿岸をめぐる旅。
この三陸道がとんでもなく便利な道路。よく道路を「大動脈」なんて言いますが、
まさにこの道が完成を迎える事で沿岸の移動がよりスムーズになるのです。
そしてその人の流れはきっと新鮮な血液の様に、沿岸をぐっと元気にするとも思うのです。
我々はまず花巻空港から宮古へと向かいました。宮古って言ったらあの人たちだ。
*今回の取材は最少人数で、更に全員PCR検査を受け万全の感染対策の元で行いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

東日本大震災が発生した2011年、
三陸沿岸の地域の足としてなくてはならない存在だった『三陸鉄道』も当然被災しました。
その後の三鉄マン達の不屈の精神や、
地域の足を守るための並々ならぬ努力と奮闘はこれまでの旅日記でも書いてきました。
僕らが三鉄を訪れたのはちょうど1年前。長い間不通だった旧JR山田線を三鉄が引き取り、
いよいよ北リアス線~南リアス線の約163kmが全線開通する直前というタイミング。
『今年はオリンピックの聖火も三鉄で運ぶんです』なんてお話しも伺いました。
取材は昨年の2月。その翌月あたりからコロナの影響が世を覆い始め、4月には緊急事態宣言。
東京オリンピックはまさかの延期、三鉄はあれからどうなってしまったんだろう…。
そんな僕らの不安をよそに笑顔で迎えてくださったのが、
取締役運行本部長(安全統括責任者)の金野淳一さんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

井門「前にお伺いしたのがちょうど1年前だったんですよね。」

 

金野「そうですね、全線開通の直前で。それからすぐにコロナが拡がって、
オリンピックも延期になってしまって。」

 

井門「今年は聖火をどうするかはもう決まっているんですか?」

 

金野「まだやらないとは聞いていないので、やるつもりではいますけどね(笑)」

 

 

 

三陸鉄道リアス線というと東日本大震災発生直後から『地域の足を守る』為に、
奮闘し続けてきた鉄道会社であります。そんな三鉄を地域の方々も頼もしく感じていて、
『三鉄があるから我々も前に進むことが出来た』という声は被災地の取材でよく聞ききました。
その三鉄でさえコロナ禍において当然の様に業績は落ち込みます。

 

 

 

金野「ようやく黒字になってきたって時にコロナですからね…。
緊急事態宣言があってから観光電車は動かせなくなりましたし。
とは言え我々にとっては観光も大事だけど、とにかく地元の方の足を守らなくちゃいけない。
安心して乗車していただくために、本数を増やして運行していました。」

 

井門「えっ!?本数を増やして??
それってごめんなさい、お金はかかる事ですよね??」

 

金野「はい(笑)でも我々としては何よりも地元の方の足を守ることが第一ですから。
観光ももちろん大事ですよ。でも我々が観光を頑張るのは地元の足を守るためなんです。」

 

 

 

金野さんのこの言葉を聞いて「はっ」としました。
三陸鉄道は何よりも地域の鉄道会社。
どうしても色々な企画列車を運行されているので「観光」ばかりがフォーカスされますが、
そこで集客しなければ再び地元の足を失うことになってしまう。
地元のために観光を頑張る。
静かにそう話す金野さんから、決してブレない三鉄マンの誇りを感じました。
そしてその誇りはそのまま三陸鉄道の強さへとつながります。

 

 

 

金野「ここから先も実は色んな企画を考えているんです。
震災があって、やっと復旧したら今度は台風でダメになって。
いよいよ全線開通ってなったら今度はコロナでしょう?
それでも今まで乗り越えてこれたから、今回もきっと大丈夫だと思ってるんですよ。
来年度の予算組はコロナが明けた前提で考えてますからね!(笑)」

 

 

 

 

 

 

 

 

井門「強いですね、三陸鉄道は。」

 

ミラクル「きっと物凄く大変なはずなのに、大丈夫そうなのが凄いよね。」

 

永尾「たくましいね。」

 

 

 

金野さんへのインタビュー帰り、僕らはそんな話をしながら次の取材先へと向かいました。
コロナの影響もあって宮古駅前は閑散としていて、
でもそんな中にあって宮古の名物で人を集めようとする最高の飲食店があるのです。
それが魚菜亭すみよし
海の資源が豊かな宮古の海鮮をふんだんに使用したご当地グルメ瓶ドン
こちらもちょうど1年前に取材しました。
牛乳瓶の中に宮古の海の幸がミルフィーユ状に詰められていて、
それを丼ごはんの上に豪快にどーんと乗せて頂く!!
これが美味しいのなんのって、あなた(笑)
とは言うもののコロナの影響を何よりも受けてしまうのが飲食店です。
まさか瓶ドンはなくなってしまったのか…。あったとしても具の数も少なくなっただろうなぁ。
不安な気持ちの中、ご主人の宇都宮純一さんに再びインタビューです!

 

 

 

 

 

 

 

 

井門「宇都宮さん、ご無沙汰してます!」

 

宇都宮「ご無沙汰してます、ようこそ!」

 

 

 

1年ぶりにお会いする宇都宮さんは変わらずにお元気そうで。
お店の中にも『瓶ドン』の文字が変わらず見えているので少しほっとする。

 

 

 

宇都宮「変わらずに営業はしていますけど、コロナの影響で店も閉めざるをえなくなりまして。
去年のGWは店を開けられなかったんです。」

 

井門「そうでしたか…。大変でしたね。」

 

宇都宮「震災の時だってお店を開けていたのに、これですからね…。
なので一昨年のGWから比べたら売り上げは10割減ですよ。」

 

 

 

東京はもとより近隣の県からも観光客の姿は無くなってしまい、
ほぼ地元のお客さんのみで営業しているため客数が1日で10人程の時もあるとか。

 

 

 

井門「せっかく瓶ドンで町おこしを…なんて話を去年はしていたんですけどね。
本当に悩ましいなぁ。あれから瓶ドンはどうなってるんですか?」

 

宇都宮「変わらず続けてますよ!宮古の飲食店が10店舗ほどで、
それぞれの店の特色を出した瓶ドンを今もやっています。」

 

井門「すみよしの特徴と言えば?」

 

宇都宮「ウチはもう宮古の物を使う、これが何よりです。
因みにいまの季節美味しいのはメカブですね。」

 

井門「そう!去年頂いた時もメカブがめちゃくちゃ旨かったんだ!
1年前から比べて変わったことはあるんですか?」

 

宇都宮「えぇ、調子に乗ってパワーアップしてます(笑)

 

 

 

そう言って笑う宇都宮さんに教えて頂いた中身、ご紹介しますよぉ!
焼きウニ、イクラ、メカブ、タラ、ホタテ、タコ。これが瓶ドンの中身。
そこに大きなアラ汁、副菜、タラのフライが付いて…。

 

 

 

宇都宮「税込み1650円です。

 

井門「安いっ!!

 

 

 

いやいやそう叫びたくもなるって。
皆さんには画像を見て頂いた方が早い。心の準備は良いですか?では、どうぞっ!

 

 

 

 

 

 

 

 


どうだっ!!凄かろう!!?
長いスプーンを使って瓶ドンの具を丼のごはんの上にオン!
綺麗に乗せるコツは一つの具を乗せたら、円を描く様に次の具を隣のスペースに乗せる。
最後にメカブを中央にオンしたらマイ瓶ドンの完成です!

 

 

 

宇都宮「井門さん、上手ですね~。」

 

井門「確か去年も宇都宮さんにそう言われた気がします(笑)」

 

宇都宮「それにしても間近で見ると、我ながら旨そうだなぁ(笑)
いや、だって自分ではなかなか食べないですからね。」

 

 

 

作った本人が「旨そう」と呟く瓶ドンの味。
間違いなく一口かっこんだ瞬間に笑いがこみあげてくる幸せの味です。
聞けば宇都宮さんの気まぐれで、今はその日の新鮮な海鮮がプラスオンされることもある!

 

 

 

井門「因みに今日も何やら乗ってますよね…?」

 

宇都宮「あ~、乗ってますね。
今日は…本マグロ煮ホタテです。」

 

 

 

なんと言う贅沢の極み…。

 

 

 

 

 

 

 

 


井門「いやぁ…これは旨いわ…。これで税込み?」

 

宇都宮「1650円です!

 

井門「安いっ!

 

 

 

このくだり、何度もやりたくなっちゃうくらいに美味しい。
すみよしの瓶ドンには宮古の魅力がぎゅっと詰まっています。
ただこうして当たり前の様に宮古の海の幸を頂ける日が来るということ、
震災直後には想像も出来ませんでした。

 

 

 

宇都宮「震災直後はもうとにかくあったかい物を食べさせたくて、
だから自分たちも必死で店を開けたんです。自分だってあったかい物食べたかったもんね。
あれから色んな事がありましたけど、自分にとってはあっと言う間の10年でした。」

 

 

 

でもあの時そうして町の人たちの為に頑張ったからこそ、
きっと今の大変な状況下でも町の人たちが支えてくれているんだと思うんです。
宮古を本州の最東端なんて宇都宮さんは表現されていましたが、
でも遠くまで足を運んだからこそ出会える最高のグルメが待っている。
僕らも全国各地で美味しい物を色々と食べてきましたけど、
宮古の瓶ドンはまだまだ可能性を秘めていると思うんです。

 

 

 

宇都宮「大変な状況だってことを、是非井門さんのラジオで伝えてくださいね。」

 

 

 

皆さんが踏ん張って前に進んでいる事も勿論お伝えしますが、
こんなに美味しい物が宮古で待っているって事を沢山の方々に知って欲しいなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

永尾「それにしても今回は山田に泊まれなかったのがねぇ…。」

 

井門「そうだよ!!山田町の夜!!!」

 

ミラクル「山田町の夜を惜しみすぎでゲスよ!(笑)」

 

 

 

昨年も訪れた山田町。
牡蠣の養殖が盛んな町で、三鉄の駅が復活したのが昨年。
町に鉄道の音が再び鳴り響くようになった町は、綺麗に家や商業施設が立ち並び、
僕は陸中山田の駅前でレポートをしながらこみあげるものがあったもんなぁ。
山田町は津波と火災で甚大な被害を被った場所。
だからこそ、その山田町で宿泊できる日が来るなんて…と感動したもんです。
今回は山田町に泊まることが出来なかったので、後悔の念が強いKIKI-TABI一行(笑)
こんなにも山田の夜を楽しみにするのは僕らくらいじゃなかろうか。

 

そしてここで会いたいのはこの方。
佐々木俊之さんです。
昨年お会いした時はまさに作業中で、取材の途中で何度もタイマーが鳴って(笑)
その度に笑いながら作業に戻っていった佐々木さんが忘れられません。

 

 

 

 

 

 

 

 

佐々木「ごめんなさい、今日もちょっと作業していて。
話している途中にまたタイマー鳴るかもしれないんですよ(笑)」

 

井門「いやいや、お邪魔しているのは我々ですから。
構わず作業にもどってくださいね!」

 

 

 

こう僕らが話す『作業』とは、牡蠣の燻製作りのこと。
岩手県の山田町と言えば牡蠣の養殖で有名な場所です。
佐々木さんはその山田の牡蠣を使った牡蠣の燻製『山田の牡蠣くん』を作る名人なのです。
そうそう、高速道路から山田町に入るときに見える、海に浮かぶ牡蠣筏が綺麗だったなぁ。

 

 

 

佐々木「いまはもう終わり(牡蠣の養殖)の時期ですけどね。
それも海の近くに行くと防潮堤で見えなくなっちゃいますけど。」

 

井門「やはり思うところはありますか?」

 

佐々木「防潮堤で海が見えなくなったのはちょっと寂しいですけど、
これで津波への備えが出来ましたからね。安心です。」

 

 

 

東日本大震災発生時、佐々木さんの工房は今よりもっと海の近くにありました。
その後の地震による津波でお家も工房も流されてしまったのです。
あれから10年、いまは海から離れた内陸に工房を設け、
一生懸命に山田の牡蠣くんを作っていらっしゃる。

 

 

 

佐々木「意外とあっと言う間。もがいていた10年でした。
本当に色んな方々にお世話になった、手助けしてもらった10年でしたね。」

 

 

 

10年とひと言で言ってしまえば簡単ですが、
本当に何もなくなってしまった山田町に家が立ち並び、商業施設が出来て、
宿泊施設が出来て、三鉄が通る様になった…これが10年なんです。
でもその10年の間で変わらない味がある。それが山田の牡蠣くん。
今回もインタビュー中にタイマーが鳴ってしまったけど(笑)
それは美味しい牡蠣くんを作る準備の合図。
わがまま言って今回も牡蠣くんを頂いてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井門「いやぁ、この牡蠣の大きさ凄いですよね…。
濃厚なチーズの様な味わいもあって本当に美味しいです。」

 

佐々木「ここには塩とオリーブと牡蠣、
それと私の愛情が入ってますから(笑)

 

一同「(笑)」

 

佐々木「前に大阪の催事に出店したときに同じことを言ったの。
そしたら一人のお客さんに“愛情が入ってないのはどれ?”って聞かれてね。
私も困りながら“これかなぁ…??”って言ったら、
じゃあその分おまけして!だって(笑)」

 

井門「さすがだなぁ!(笑)
佐々木さんはどう返したんですか?」

 

佐々木「うん、瓶の底の方を見てね。
あ~!ここに少し入ってました!!って(笑)」

 

 

 

山田の牡蠣くんが愛されるのは佐々木さんの人柄もあるのでしょう。
そんな佐々木さんがなんと新作を作ったと仰るではありませんか!

 

 

 

佐々木「赤皿貝の貝柱を同じ様にオリーブオイルに漬けたんです。
赤皿貝の燻製ですからネーミングは…。」

 

井門「ネーミングは??」

 

佐々木「山田の赤ちゃんで。

 

 

 

 

 

 

 

 

佐々木さんとお会いするとなんとも幸せな気持ちになります。
そうそう赤皿貝の貝柱と言えば、前に来た時に工房の入口に沢山干してあって。
『ウェルカム帆立』と永尾さんが呼んでたけど(笑)
やっぱり入口で干しているとお客さんが中に入りがてら食べちゃうんだとか(平和か!)
「みんな食っちゃうんだよ…」って佐々木さんが仰ってたけど、
そんなことが許される(許されてないのかもしれない)のも佐々木さんの人柄だろうなぁ。
なんとも幸せな気持ちになりながら、続いては釜石へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

今は釜石市文化スポーツ部スポーツ推進課・ラグビーのまち推進係という肩書を持ち、
2年前にお話しを伺った際には熱き想いに溢れる涙を抑えられなかったあの方。
長田剛さんです。
2年前と同じ様に釜石鵜住居復興スタジアムで待ち合わせた我々は、
あの時と同じ様にロッカールームでのインタビューとなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

長田「2年ぶりですか、お元気そうで何よりです!」

 

井門「2年前はちょうどラグビーW杯の前で。
2019年はあれだけラグビーが熱狂して、
長田さんも“必ず成功します!”と仰ってましたもんね。
ところが釜石で行われる2試合のうちカナダVSナミビアの試合が台風の影響で中止に。」

 

長田「いやぁ、もう本当にそれについては言いたい事がたくさんあって…。」

 

 

 

熱を帯びた表情で当時を振り返る長田さん。
あの時に気づかされたのはラグビーに携わる方々の素晴らしさだったと言います。

 

 

 

長田「台風の影響で試合が中止になって、復興のワールドカップがまた災害に屈するのかって。
悔しさしかなかったんです。でもすぐにシーウェイブスの後輩から連絡がありまして。
剛さん、俺たち力が有り余ってますんでいつでも手伝いますから!って。
その時に震災の時のことを思い出したんですよね。
あの時に釜石の人たちはシーウェイブスの選手たちがヒーローに見えたっていうんですよ。
後輩の連絡を受けて、そういう事かって感動しました。素晴らしいなって。」

 


そしてあの時に世界中を感動させたのがカナダ代表の行動でした。
台風被害を受けた釜石に残り、
泥のかき出しなどボランティアに従事した彼らの行動は世界中から称賛されました。
ここにはラグビーの精神にある『品位・規律・結束・情熱・尊重』があると言います。

 

 

 

長田「いま僕はラグビーを通じた人材育成に携わっています。
ラグビーが持つ5つの『品位・規律・結束・情熱・尊重』という精神を、
ラグビーを通じて釜石の子供たちに教える教室を開いているんです。」

 

 

 

釜石はラグビーの街。
2019年、それは改めて世界中の人に発信されました。
でもそこは決してゴールではなく、新たなスタートなんですよね。
ラグビーを通じて養われた健やかさと清らかな精神。
長田さんが指導する子供たちが大人になった時に、
“あいつはしっかりしてるな…そうか、釜石出身だからか!”と言われたら最高ですよね。
そんな日が来たらまた泣けちゃいますね、長田さん?

 

 

 

長田「いやぁ、泣いちゃいますね…。
だって子供がそこで遊んでるのを見るだけで僕泣いちゃいますもん(笑)」

 

 

 

震災を乗り越え、スタジアムが完成し、
人の歓声が戻り、またラグビーの熱が釜石を熱くしている。
今の釜石の街を長田さんはどんな風に思っていますか?

 

 

 

長田「自分が思ってた以上の釜石になったと思います。」

 

 

 

 

 

 

 

 

長田さん、2年前にお話しした時と熱さは変わらなかったんだけど、
なんとなく雰囲気が変わったなぁ…と思っていたんです。
そしたらね、僕らがスタジアムを後にしようとした時に…。

 

 

 

長田「有り難うございましたー!」

 

 

 

長田さんの太い腕にそれはそれは可愛らしい赤ちゃんが!

 

 

 

井門「うわぁ…可愛いなぁ…。お子さんですか?」

 

長田「はい、1年少し前に産まれました。ほら、バイバーイって。」

 

永尾「天使だ、天使!」

 

ミラクル「本当に可愛い!」

 

長田「ははは。有り難うございます。」

 

 

 

そう言って愛娘をあやす長田さんの優しそうな顔。
離れたところには奥様の姿もあって、僕らはまた幸せな気持ちになったのです。
人生は続く、そうすれば変化も起こる。
その変化を幸せなものにするために、僕らは必死で生きていくんだ。

 

 

 

岩手編の最後は陸前高田市です。
陸前高田と言えばその象徴となるのは『奇跡の一本松』かもしれません。
津波に飲まれた松林の中で一本だけ残された一本松。
いまは復興の象徴の様にそこに立っていますが、僕が陸前高田を訪れたのが3・4年前で。
その時はまだ髙田松原復興祈念公園も完成前で、アバッセたかたもありませんでした。
それが…。

 

 

 

井門「うわぁ…町の景色が変わってるじゃないですか!」

 

ミラクル「僕は10年ぶりくらいだけど、本当に変わったね…。」

 

永尾「ここでお話しを伺うのは勿論、あの人ですよ。」

 

 

 

かつて陸前高田の今泉地区は『発酵の町』と呼ばれました。
震災前は醸造業者が江戸時代から軒を連ねる歴史ある町だったのです。
その歴史ある町も2011年の地震により町の9割が壊滅。
発酵の町の歴史は途絶えようとしていました。
そんな中にあっても『この町は必ず復興します!』と話してくださったのが、
八木澤商店9代目の河野通洋さんでした。
昨年12月には発酵のテーマパークとして、
「発酵パーク CAMOCY」がオープン。
取材当日も駐車場には沢山の車が停まり、
中のイートインスペースでは小さな子供連れのご夫婦や地元の若者で賑わっています。
町に新たに生まれた賑わいの場が『発酵』をテーマにした場所だなんて!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕らと合流した河野さんは、CAMOCYから少しだけ離れた場所へと歩き出します。
そこは大きな何かを作る工事現場。

 

 

 

 

 

 

 

 

河野「ここに新しく味噌工場とマヨネーズ工場、本社を作ろうとしています。」

 

永尾「ここは震災前に会社と蔵があった場所なんですよね?」

 

河野「はい。そうです。」

 

 

 

井門「蔵と工場をここに戻せる事で肩の荷が下りた事もあるんじゃないですか?」

 

河野「工場を一関に作った時は「裏切者!」なんて言われましたけどね。
でもここに工場を再建することで、全員じゃないですけどここに人を戻せます。
これが出来ればもう裏切者なんて言われなくなりますね(笑)」

 

 

 

工務店の方々が作業をする中、河野さんはこの10年を静かに振り返りました。

 

 

 

河野「過ぎてしまえばあっという間で、
当時メディアのインタビューで“10年後に世界から称賛される町にしたい”って話したんです。
そしたら物凄いお叱りを受けまして。だってそうですよ、
まだご遺体も見つからないような状況で新しい町の姿はこうだって話すんですから。
でもそうやって“こうしたい”“やりたい”を言い続けてきたら仲間が集まってきました。」

 

 

 

そう話す河野さんの熱量の源には、この町への愛があります。

 

 

 

河野「ここに工場を再建する事で、昔からこの町で暮らす方々に、
“発酵の匂いや音が戻った!”って喜んでもらいたいんですよね。
CAMOCYにしても“生まれ育った町にこんなものが出来て良かった!”って言って貰いたい。」

 

 

 

そんな河野さんの元に集まるのは陸前高田を良い町にしたいと願う若者たち。
どうやら10年前は若手だった河野さんも、おっさん呼ばわりされてるとか…。

 

 

 

河野「そうなんですよ(笑)
若い子たちは色んな事を考えてアイデアを出すんで、
ちょっとおっさんは黙っててもらえます?なんて言われちゃって、わはははは(笑)」

 

 

 

そう話す河野さんはとても嬉しそうで、幸せそうで。
震災直後の陸前高田の姿からは想像も出来ない姿が、僕らの目の前には広がっていて。

 

 

 

河野「悲しい話をしていたらキリがありません。
でもいつか自分が向こうに行った時に恥ずかしくない町にしたいんです。」

 

 

 

陸前高田では昨年の夏に大規模な花火大会が開かれました。
河野さん曰く、今年は2回やる予定です…とのこと。
これから陸前高田がどう変わっていくのか、またこの町を訪れる楽しみが増えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

今回のスペシャル、スタジオではFM岩手の阿部沙織さんと共にお送りしました。
サオリンとの付き合いももう長くて、
何度も岩手について話をしてきた僕の仲間です。最高の喋り手です。
『忘れない』ことの大切さをサオリンは伝えてくれたけど、それは本当にそうで。
更に言えば10年が節目でもなんでもない事は、改めてここに記しておきたいです。

 

あの地震で、津波で、火災で失われた町は少しづつ…いやだいぶ元に戻りました。
元に戻るどころか生まれ変わった町も沢山あります。
でも、それでも10年ではまだまだ足りないんです。
これから先もきっと沿岸の町は大きく変わっていくでしょう。
その変化を、改めて皆さんにも見て頂きたいんです。
そしてここから10年後、もっともっと変わった街並みを眺めながら、
凄いね、綺麗になったね、頑張ったんだねって地元の方々に話してあげて欲しいんです。

 

いや、それは今でもいいんだよな。
10年は節目ではないけれど、何かをするタイミングにはなるもんね。
震災から10年、コロナが終息したらで構いません。
どうか沿岸の街並みを眺めながら、そこで暮らす方々に声をかけてください。

 

「本当に、本当に、きれいな町ですね。」って。
「人の力って、本当にすごいですね。」って。