鉄と魚とラグビーのまち釜石の今|旅人:井門宗之
2019-02-28
2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災から8年。
もう8年、8年も経つんです。
私事ですが僕の子供は震災の年に生まれました。
その子がもう今年で8歳になる。そして彼は震災を知りません。
長いようで、あっと言う間なようで。
でも息子の成長を見ていると、そこにはやっぱり月日の経過がある。
震災以降番組は幾度となく被災地を訪れ、
その町の姿を、人の声をお伝えしてきました。これは旅日記で何度も書いている事です。
取材当初は目を背けたくなる風景も沢山ありました。
いわゆる瓦礫の山を見た時に、
言葉に出来ないもどかしさを感じたことも1度や2度ではありません。
取材を続ける中で、被災者ではない我々がどこまで東北の方に寄り添う事が出来るのか、
そんな事ばかり考えていました。そしてそれは今も心のどこかにあります。
それでも、それでもです。
何度も取材に訪れる事で感じる、人の心の変化がありました。
町の景観の変化がありました。
この8年、僕達は人の言葉と、変貌を遂げる町の様子で、
“あの震災がもたらしたもの”を伝えてきた様な気がします。
間もなく震災から8年の月日が経とうとしています。
皆さんにとっての8年はいかがでしたか?
あの震災から8年、皆さんはどんな時間を過ごしてきましたか?
目の前には新日鐵住金釜石製鐵所の煙突が見えます。
白煙を上げるその姿は釜石市のシンボル。
すぐ近くの大通りには沢山の車も行き交っています。
井門「久しぶりの釜石だけど、町が随分と変わりましたね!」
永尾「色んなお店が出来たもんね。
もう本当に震災直後の様子が思い出せないくらいだね。」
釜石を訪れるのは久しぶりだけど(ご無沙汰していてごめんなさい)、
本当に町の姿が変わった様な印象を受けました。
お店、ホテル、ホール、そして通りを歩く人の多さ。
かつて釜石にお邪魔した際お世話になったかまいしさいがいエフエムも、
既に災害FMとしての役目を終えています。
――あの時の皆さんはお元気だろうか…。
そうだ、お話しを伺った佐々木さんの桜牡蠣もまだ食べてないや。
阿部さんは元気かな。鬼灯のママの料理もまた食べたい。――
釜石を想う時、本当に様々な人の顔が浮かんできます。
あれから8年…。少しずつ前に進んできたこの釜石の町に、
ついに今年、ラグビーW杯がやってくるのです!
今回は震災から8年の、釜石の今の声をお届けします。
吉武「あれが魚市場の施設なんだね。」
永尾「となるとその隣で工事しているのが新しい施設なのかな?」
釜石魚市場の魚河岸地区荷さばき施設が完成したのは2017年5月。
新浜町地区の施設と合わせた2場体制をとっているのだが、
こちらの施設では定置網を中心とした漁船の水揚げに対応しているそうだ。
なんてったって釜石は「魚のまち」。
美味しい魚は沢山水揚げされる。
ではその美味しい魚を気軽に楽しむ為の施設は…?はい、出来るんです(笑)
いよいよ今年の4月予定で、
海産物を食べたり買ったり出来る“にぎわい創出施設”が完成するのです!
お話しは釜石市の産業振興部商業観光課長:藤井充彦さん。
工事中の館内を案内していただきつつ、
もう7割くらい工事の進むあるスペースでお話しを伺いました。
井門「ここは飲食店になるんですよね?」
藤井「はい、ここはお寿司屋さんになる場所です。」
井門「確かに木の温もりもあって、しかも目の前には港が広がっていて…。
ここで食べるお寿司は美味しいだろうなぁ。」
藤井「他にも地元の魚介をふんだんに使ったイタリアンのお店も出来る予定ですよ。」
お話しは2階で伺ったのですが、目の前の港の景色がなんせ良いのです。
井門「施設の名前は何になるんですか?」
藤井「釜石魚河岸にぎわい館なんですが、
愛称を一般公募していまして、それが決まりました。」
井門「ほう!ずばり何と?」
藤井「魚河岸テラスです!」
工事中ではあったけれど、目の前のウッドデッキは開放的で気持ちが良い。
そして再三書いているけど、港が一望できるってのも良い。
にぎわい館として、ここが人の集まる場所となる事への期待も膨らむ。
井門「お店の他にはどんな仕掛があるんですか?」
藤井「はい、1階にはキッチンスタジオを併設します。
ここで有名シェフを招いて釜石の海産物で調理を行ってもらう予定です。」
地元の海産物が有名シェフの手によって見事な料理に変身する。
その味に地元の方々が改めて「釜石の魚って凄い!」となる。
きっとそれは地元の方だけではなくて、市外・県外から来たお客さんにとってもそう。
この施設は釜石の海の幸の魅力を何倍にも掛け算してくれる場所になるのだ。
永尾「釜石って魚の町なんだけど、
これまでって海産物を買ったり魚を食べたり出来るこうした施設が無かったですもんね。」
藤井「まさにそうなんです(笑)
釜石はかつて小さな漁村から始まった町です。
ですからこの施設が“魚のまち釜石”を象徴する様になれば良いと考えています。」
井門「釜石にとって、この8年はいかがでしたか?」
藤井「そうですね…8年と聞けばあっと言う間な気もします。
やっとここまで来たという想いも強いです。
震災の時は日本中、世界中の方から支援を頂きました。
今年は釜石でラグビーW杯が開催されます。
釜石が元気になっているという事をラグビーW杯を通じて発信出来ればと思っています!」
今回釜石を訪れて、また会いたい人や行きたい場所が増えたのだけど、
“また泊まりたい宿”も増えました。
それが今回我々がお世話になった宿『宝来館』です。
釜石の宝来館と聞いて、ひょっとすると高台から撮影された、
あの津波の映像を思い出す方もいるかもしれません。
実は宝来館の女将さんもあの津波に飲まれ、しかし九死に一生を得たという方。
正直に言えば“あの津波に飲まれた経験を持つ女将”と聞いて少し気持ちが固くなっていました。
でもそんな気持ちの固さは、女将の満面の笑顔に見事に消されてしまったのです。
岩﨑「よく言われるんです。“なんでそんなに笑っていられるの?”って。
だってね、あの時に私は貰ったものがいっぱいあったから。
あの時に生きていけなかった人の分も、生きていかなきゃならないと思ったから。」
そんな風に話してくださったのは女将の岩﨑昭子さんです。
“私、話しがあっちゃこっちゃ行って大変でしょ~(笑)”
と笑いながら話してくれた岩﨑さんのお話しは、OAで聴いて頂いた通り。
そこには旅館を営む女将ならではの8年が詰まっていた様に想います。
井門「まず宝来館はいつからここで旅館を始められたんですか?」
岩﨑「私の両親がここで始めたのが最初なので、昭和38年です。」
井門「さっき駐車場に車を停めた時、目の前の海から波の音が大きく聴こえてきました。
ここもあの震災で大変な被害を受けたんですよね?」
岩﨑「ここは海抜10mなんですけど、あの時の波の高さは16mと言われました。
津波で家も何も流されてしまったんですけど宝来館は残ったんです。
なので震災後はここを開放して、避難所にしました。」
井門「岩﨑さんもあの津波に飲まれたと聞きましたが…?」
岩﨑「それねぇ(笑)その話しをすると地元の漁師さんに言われるの。
女将ね、あのとき津波に飲まれても助かった人はいっぱいいるんだよって。
奇跡みたいにいうなよ~(笑)って。
だから私だけが偉そうに話すことじゃないなって思うんです。
津波がきた時は宝来館の裏の山に皆で避難しました。
火を焚いて避難していたのが60mの地点だったんです。
今はそこに登る道を整備している最中で、
私の今年の目標は裏の山を防災の為にしっかりと整備する事なんですよ。」
震災の翌年1月5日に再建した宝来館。
昔からここにある宝来館の再開が、地元の人にどれだけの希望を与えたことか。
そしてその希望の中心人物だった女将が、新たな希望に火を灯した。
それがラグビーW杯の釜石への招致だったのです。
岩﨑「招致って言ったってなんか担ぎあげられちゃって(笑)
釜石はご存知の通りラグビーの町です。
そして実はこれまでも釜石という町は、
どん底の時にスポーツで這い上がって来た町なんです。
私の青春時代は7連覇の時代なんです。
とは言うものの最後の時は勝てないかもしれないと言われていました。
町の人口も減少していて、なんとなく後ろ向きだった時だったんです。
だからこそ、頑張らなくちゃいけなかった。
あの時と今と、なんとなく似ている気がしているんです。
スポーツで市民が一つになる。
ラグビーの言葉で“One for all. All for one”ってあるでしょ?
一人は皆の為に、皆は一人の為に。
私はこれはまさに釜石の人の為の言葉だなって思うんです。」
岩﨑さんの言葉は続く。
岩﨑「震災から8年が経とうとしていて、
時間が経てば経つほどあの時の事が鮮明になっていきます。
でもその中で振り返るだけでなく、新しい年の幕開けなんだって確認する事も多い。
ちょうど従業員の皆に話したばかりだったんですけど、
この宿は“三陸のあったか料理宿”になろうって(笑)
そしてこれまで私が色々とやって来たけど、
これからは皆で色々とやっていこうって。
宝来館を船に見立てて“今年は皆で宝来丸の新しい出航の年にしようね!”って。」
岩﨑さんにそう言われたら、きっと笑顔で付いていっちゃうだろうなぁ(笑)
宿の皆さんも優しく雰囲気が温かだったのは、でもそういう事だったのかな。
震災から8年が経とうとする中で、改めて宿が一丸となろうと。
因みに岩﨑さんが仰った“三陸のあったか料理宿”の言葉通り、
宿の料理はどれも本当に美味しくて…。写真だけですけど、いくつかどうぞ!
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はぁ、思い出しただけでお腹が空いてきた(笑)
料理にもおもてなしにも力を入れる宝来館ですが、
岩﨑さんには力を入れている事がもう一つあって。
それが震災の経験を生かした“防災教育”なんです。
岩﨑「私は防災教育を通じて人の命は助かる事を皆さんに知って貰いたいんです。
先程お話しした裏の森ですけど、ここにシェルターを作って、
ツリーハウスを作って、ここに集う事が防災の学びになるっていう、
旅育の森プロジェクトを今年立ち上げようと思っているんです。」
客の命を守る宿作りをするのが女将の使命。
その為の森づくりを今年は目標にしているという岩﨑さん。
実は翌朝、震災当時から今までの様々な写真や動画を交えて、
僕らだけではなく他の宿泊客にもそんなお話しを聞かせてくれました。
その中には外国からのお客さんの姿も!
岩﨑さんはそんなお客さんの一人一人に笑顔で語りかけます。
ラグビーW杯が釜石に来ることへの想いと、防災教育の大切さを。
宿の目の前にはかつて地元の方が植えた松林があります。
震災の津波を被ってもなお、見事な松林を残す根浜の海岸。
僕らは岩﨑さんに案内されて、松林を歩きながら“ある物”を見に行きました。
それがこの巨大なコンテナです。
岩﨑「この中にはイギリスから贈られた救命ボートが入ってるんです。」
井門「イギリスからですか!?」
岩﨑「はい、ロンドン芸術大学の先生が根浜にいらっしゃって。
色んなお話しをしたんですけどその時に、
“どうして津波で流された人をボートで助けに行かなかったのか?”と聞かれたんです。
何度も津波を経験している三陸の人間からすると、
津波の時に船を出すなんてとんでもない、とにかく逃げるしかないんですけど、
イギリスにはレスキューボートがあって、
水難事故があった時はレスキューボートで助けに行くっていう文化があるんですね。」
井門「それでこの救命艇が贈られたんですか?」
岩﨑「えぇ、早かったですよ。
どうしてこんなに離れた国の事にそこまでやってくれるのかなぁ…って思いましたけど。」
井門「それはひょっとして、同じ島国でってこともあったのかもしれませんね。」
岩﨑「そうですねぇ。」
井門「あとこれは推測ですけど、
イギリスの文化の中にある“騎士道精神”がそうさせたんじゃないですか?
困っている人や弱い者を助けるっていう。」
岩﨑「なるほど!そうですね、そうかもしれない。
騎士道精神ですか…あぁ、きっとそうなんでしょうね。」
震災から今まで沢山の人に支えられながら、そして支えながら進んできた岩﨑さん。
今年は何より釜石の方々が何よりも楽しみにしているラグビーW杯があります。
岩﨑「宝来館はスタジアムに一番近くて、
歩いてスタジアムまで行けるのがウリでーす!!(笑)」
出会いから最後まで、岩﨑さんはずっと笑顔だったなぁ。
W杯のタイミングはまだ宿に空きもある…ようなので、
女将の笑顔と三陸のあったか料理を味わいに、宝来館へ是非!
僕らが最後に向かったのは、その宝来館からすぐの場所。
ラグビーW杯の中心地となる、釜石鵜住居復興スタジアムです。
このスタジアムで行われるのが9月25日のフィジーvsウルグアイ、
そして10月13日のナミビアvsカナダ戦の予選ラウンドです。
昨年8月のこけら落としから本番の日を待ち続けたスタジアム。
勿論、その日を心待ちにしているのはスタジアムだけではありません。
ここでお話しを伺ったのは、
釜石市ラグビーワールドカップ2019推進本部事務局主任の長田剛さんです。
長田さんには実際にスタジアムを見せて頂き、
その後のインタビューはなんとロッカールームで収録させて頂きました。
井門「神聖なロッカールームで…有り難うございます。
まず長田さんが釜石に来たのはいつ頃だったんですか?」
長田「はい、僕は元々奈良出身なんですけど、
大学を卒業してから神戸のチームでプレイしていました。
その後、チームを離れる時に真っ先に手を挙げてくれたのが釜石シーウェイブスだったんです。
2009年からチームに入って、怪我で選手は引退せざるを得なかったんですが、
今はこうして釜石でのW杯開催に向けた仕事に携わっています。」
井門「間もなく震災から8年になりますが…。」
長田「僕も震災の時は釜石にいたので、町がどんな風になったか知ってます。
僕にとっての8年と同じ様に、釜石で暮らす全ての人のそれぞれの8年だったと思います。」
井門「釜石の方にとってラグビーはやはり特別なものですか?」
長田「僕は釜石市民が全員ラグビー経験者だと思ってますから。
ラグビー人口100%と言ってます(笑)」
井門「何かしらの形で市民はラグビーに携わってるってことですね(笑)」
長田「釜石は、ラグビーで復興するって決めたんですよね。」
釜石のチームと共に、そして釜石の人達と共に生きてきた長田さん。
ラグビーの町・釜石で、釜石の人達が愛するラグビーに携わっている長田さん。
だからこそ、今年のラグビーW杯が釜石で開催されることに、特別な想いがあるのだ。
井門「僕らは宝来館にお世話になったんですけど、
スタジアムのこけら落としの時の洞口さんのキックオフ宣言の映像を見せて貰いました。」
長田「そうでしたか。あの子は釜石高校の生徒ですけど、震災当時は小学生で。
彼女の小学校も、彼女が通う筈だった中学校も津波の被害を受けたんです。
そしてこの鵜住居スタジアムは、その小学校と中学校があった場所です。
彼女には彼女の8年がきっとあったと思います。」
井門「そうですね…。スタジアムも見せて頂きましたが、ここに沢山のお客さんが来るんですね。」
長田「やっとみんなに恩返しが出来るなって思います。」
井門「恩返しですか?」
長田「あの時、世界中の人に支えてもらった、助けてもらいました。
だからこそラグビーW杯の開催で釜石が元気になりましたよって、
やっと言えるチャンスが来たなと思っています。」
井門「あの客席が埋まった時の事を想像すると…これは体感してみたいですね!」
長田「常設で6000席あって、W杯の時はあと1万席を足します。
僕は運営側なので、こけら落としの時は誘導とか色々やっていたんです。
でもあの日、このスタジアムの6000席には満杯のお客さんがいて、
…あの時の歓声を思い出すと……。……すいません…。」
長田さんは静かに嗚咽を漏らした。
その涙はこの町をラグビーで支えようとし続けた人の涙。
この町をなんとか元気な姿にしようとし続けた人の涙だった。
井門「成功を、お祈りしています。」
長田「いや、成功はするんですよ(笑)
そこからをまた考えなくちゃいけないのかなと思っています。」
まずは本番を無事に成功させる事が第一だが、
長田さんの心はこの新しいスタジアムの次のステージも見ていた。
これだけの熱い想いを持った長田さんがいるのだ。
きっと大丈夫だと、その場にいた僕ら全員が思いました。
震災から8年。
今回の放送を聴いて、皆さんは何を感じましたか?
そう言えば宝来館の岩﨑さんが仰ってました。
――未来があるから、今を頑張れるんです。――
釜石の「今」は、少し先の未来にあるラグビーW杯への期待に満ちていました。
勿論それだけじゃなく、魚河岸テラスの完成や新しい建物の完成、
交通インフラの整備、様々なものへの期待に満ち溢れていました。
だからこそ、今の釜石は物凄い熱量をもって、日々を前に進んでいるのです。
僕らの「今」は、そんな釜石の「今」を見に行く事。
大きく変わろうとしている町の姿を目に焼き付けながら、
共に今の変化を分かち合う事なのかもしれません。
うん、そんな大仰じゃなくても良いか(笑)
これから東北はまた春を迎えます。
温かくなった東北で、釜石で、美味しい物を食べてさ。
新しいスタジアムを見て、宝来館の女将の話を聴いて、
何かを感じ取ってから地元に帰って、
「釜石が凄かった!海の幸もめちゃくちゃ旨かった!」
って家族や友人に話してみる。
今の東北の広報になってみる。
あなたの笑顔は、必ず東北の人達を笑顔にします。
東北の「今」を、改めて皆の笑顔でいっぱいにする為に、
あれから9年目の東北へ、是非!