「都の食文化を支えた若狭ブランド」福井県若狭編|旅人:井門宗之

2016-09-21

 

真っ青な海!!

真っ白なビーチ!!

子供達の笑い声!!!

 

そこに広がるのは……夏!!





 

 



えぇ、えぇ、ロケをしていた時、スタッフ全員で言ってたものです。

 

「これOAは9月末なんだよねぇ…」

 

…えっと、どんな風に聴こえたでしょうか??(笑)

 

ロケ当日はまだ夏の風漂う9月初頭でございました。

ビーチにはBBQを楽しむ人、海では魚を探して泳ぐこども達。

水着姿の美女も砂浜で寝転がっていたっけ…。

Dの永尾さんに至っては裸足で海に入る始末。

でもあの海を見たら思わず砂浜に駆け寄ってしまいたくなるほどの景色!

旅の始まりからなんだかワクワクしてしまいます。

 

今回の旅は都の食文化を支えた若狭ブランドの旅。

若狭湾周辺を旅してきました~!!

なんでも1000年の都である京都の文化を支えたのは、この若狭地方だったとか!?

確かに京都への鯖街道とか、聞いた事はあったけど…どういう事でしょう。

まずお邪魔したのは福井県立若狭歴史博物館





 

 

 



副館長の垣東敏博さんにお話しを伺いながら館内を御案内頂きました!

こちらの博物館は若狭の歴史にまつわる展示がコーナー毎に展開されているのですが、

まず驚かされたのは若狭地方に数多くの価値のある仏像が残されているという事です。





 

 



館内にもレプリカなど13~15体の見事な仏像が展示されているのですが、

立派な仏像が残されているという事は、何を意味すると思いますか?

 

 

垣東「平安時代、若狭都に一番近い港でした。

ここを拠点にして、物がここに運ばれたり、ここから運ばれていったりしたんです。

立派な仏像が残されているというのは、この土地に経済力があった証拠。

また文化レベルが高かったという証拠なんですよ。」

 

 

平安当時は仏教の隆盛期でもあった。

となれば確かに立派な仏像が残される=経済力の高さを示すというのも頷けます。

館内に展示されていたプロジェクションマッピングで、

その物流と京都との位置関係がよ~~く分かりました。

地図は「見学者側に日本海、奥に京都」という配置で展開されています。





 

 



垣東「鉄道が出来るまでは、都へ入る様々な物はこの若狭の港から運ばれました。

やがて鉄道が出来るとこの辺りの地域は高度経済成長の変化に飲まれる事もなく、

文化が守られていったんです。」

 

 

目の前は海、後ろは山という地形も手伝って、

文化は守られ、御食国の良さが大切に残されてきたのです。

そうそう、この「御食国」と書いて「みつけのくに」と呼ぶ若狭。

何故にそう呼ばれるようになったのか…、

それはこの土地の食文化が豊かな証でもあるのです。

 

 

垣東「何を都に運んだのかの木簡が数多く残されているのですが、

例えば歴史で勉強した“租庸調”、その“調”で若狭は塩を都に送っていたんです。」

 

 

租庸調は昔の税制の事ですが、調というのは基本的に繊維製品での納入が決められていました。

しかし地方特産品での納入も認められていた為に若狭の国は塩を納めていたんです。

地方特産品で認められていたのが34品目と言いますから、

若狭の塩は当時から『若狭ブランド』と言っても良い物だったのでしょう。

それだけ質の良い塩をこの地で作っていたという事でもあるわけで…。

 

 

垣東「“御食国”というのは、都の天皇の口に入る食べ物を作る国という意味です。

天皇の食を支える国、だから“御食国”と呼ばれたんです。」





 

 

 



御食というのは天皇の御食料を表す言葉であり、若狭の事は万葉集にも詠われるほど。

奈良時代の平城京から出土した木簡にも都に向けて塩などを運んだと書かれているのです。

豊かな海産資源、それだけじゃなく文化レベルの高さ。

都に一番近い港だったからこそ、後にこの地では杉田玄白など優秀な人材も育っていったのです。

 

 

垣東「都との人の往来があったからこそなんですが、

都で行われていた祭りも若狭に伝わってきました。

例えば鎌倉時代に都で行われた“王の舞”という祭りがありますが、

都で行われた“王の舞”の文献に残されている衣装などそのままに、

今でも若狭で伝え続けられているんです。」

 

 

館内には今も残る“王の舞”の衣装が展示されている。

垣東さん曰く、現在の京都ではこの祭りは残されていないんだとか…。

 

 

垣東「こうしたお祭りが残されているから、地域の繋がりは強いですよね。

ただ、どこもそうなんでしょうけど若い人がいなくなりつつあって。

このまま若い人が少なくなってしまうと祭りを残す事も厳しくなってくるのかなと…。

だからと言って外から人が沢山入ってくれば良いという訳ではないんですけど(笑)

痛し痒しな所はありますね…。」

 

 

しかし間違いなく若狭には“古い時代の文化の凝縮”があるわけで。

既に京都には残されていない文化、そして御食国としての豊かな食文化、

こうした伝統文化に触れるには最良の土地が若狭だとも言えます。

かつて若狭が都の文化にどれだけの影響を及ぼしたのか、

そしてこの土地の文化がどの様に発展していったのか。

いや、垣東さん、貴重なお話しを有り難うございました!





 

 



学生時代に予習が何より苦手だった井門P(因みに復習も苦手でした)、

それでも文化の予習をしっかり行った後は、

いよいよ文化(伝統工芸の方)に触れる実践編でございます!!

やって来たのは御食国若狭おばま食文化館





 

 

 



御食国若狭おばま食文化館は「ミュージアム」、「キッチンスタジオ」、

「温浴施設」、「レストラン」など様々な楽しみ方が出来る施設なのですが、

はい!今回は前述の通り伝統工芸に触れる体験でございます!!

若狭小浜には多くの伝統工芸が伝えられていますが、今回挑戦したのは…若狭塗!

若狭塗の由来について、施設のHPから抜粋させて頂きますと…。

 

 

『慶長年間(1596~1614)、小浜の豪商組屋六郎左エ衛門が国外より入手した漆塗盆を藩主酒井忠勝公に献上し、城下の漆塗御用職人松浦三十郎がこれを模して製作したことに始まり、これに改良工夫を重ねて海底の模様を意匠化して菊塵塗を案出、その門人が海辺の貝殻と白砂の美しい景観を表現した磯草塗を創り、万治年間(1658~1660)に、卵殻金銀箔塗押の技法を完成、藩主酒井忠勝公が「若狭塗」と命名して、小浜藩の藩財政の基幹産業として生産を奨励し、保護しました。』(施設HPより抜粋)

 

 

とあります。

幾重にも重ねた漆塗りを研ぎ出していく…という技法がその特徴なのですが、

今回は体験という事で若狭塗の箸の研ぎ出しに挑戦させて頂きました!

 




 

 

 

 

館内の若狭工房で伝統工芸士の羽田浩一さんに指導して頂きます。

HPにも書かれていましたが、若狭塗のスタートは慶長年間、今から約400年前です。

 

 

羽田「中国のお盆をヒントにして始めたと言われています。

だから模様もちょっと和風というのとも違いますでしょ?」

 

 

確かに完成品の若狭塗のお箸を見てみると、その模様の多彩さ、美しさは個性的。

塗りの箸なんだけど、なんとも言えない表情があって…。

 

 

羽田「漆の中に卵殻や植物の種、もみ殻、あわびの貝殻が埋め込まれています。

それを研ぎ出していく事によって徐々に模様が出てくるんです。」

 

 

研ぎ出し用の箸を触ってみると、確かに表面がゴツゴツしている。

羽田さん曰く、そのゴツゴツした所に貝殻や卵殻などが埋まっていると。

 

 

羽田「サンドペーパーで研ぎ出していくんですが、やり過ぎに注意してください。

くるっと綺麗に箸を回り込む様に模様を出していくのがコツです。

その時に力加減で模様が出てくる所と出てこない部分がありますので、

上手に加減して研ぎ出していってください。」

 

 

この若狭塗の箸、通常の工程だと6カ月かかるそうな…。

なんとそれを箸1本20分程度で出来てしまうなんて!!

羽田さん、いや先生!!宜しくお願いしますっ!!





 

 

 



私、井門P、YAJIKITA時代から各地で様々な体験をしてきました。

ロウソクの絵付け、錫の箸置き造り、起き上がりこぼし、スプーンも作ったなぁ…。

親分に言われたっけ…。

「井門君ってさ、体験物の取材って最初は普通のテンションだけど、

体験が始まると誰よりも楽しんでやっちゃうタイプだよね。」

 

えぇ、この時の若狭塗体験の時もそんな親分の声が頭をよぎりましたとも。

分かっちゃいるけど、無心でやったよね。

だから途中から無言になったよね、ラジオなのに

 

 

羽田「なんか喋ってください(笑)

 

 

って、羽田さんに言われちゃうよね。





 

 



羽田さんの優しい指導のお陰で、初めてながら綺麗な若狭塗の箸が完成しました!

*私は研ぎ出しをしただけですが…。

確か羽田さん、出来上がりを見て「100点」って言ってくれた様な…??

若狭工房の体験スペースも、小学生時代の図工室を彷彿とさせてワクワクしました!

工房では取材と同じ様な体験も出来ますが、若狭塗の製品も数多く取り扱っています!

ぜひぜひ足を運んでみてください~!!羽田さん、有り難うございました!





 

 



歴史、伝統工芸、と来たら、続いてはKIKI-TABIが最も得意とするジャンル、です!

都の食文化は若狭の食があればこそ…そんな話を博物館で聞いちゃったら、

味わってみたくなっちゃうじゃありませんか!!

そしてそして、博物館の取材をした時から気になっていた言葉があるんです。

鯖街道

若狭で獲れた魚の中でも鯖は特別な存在。

京都の鯖寿司の文化は若狭の鯖が無ければ存在しなかったのです。

その貴重な鯖を若狭から京都まで運んだ道が『鯖街道』。

山間を通る道や、琵琶湖の水運を利用した道など様々あったようですが、

そもそも冷蔵技術が無かった時代に、どうやって鯖を運んだのか。

当時は鯖をいわゆる保存食にして運んだのですが、さて、どんな調理法で??

実は今回我々が旅の宿とさせて頂いた民宿佐助さん

目の前が海という絶好のロケーション、小浜市の田烏という地区にあるのですが、

こちらのご主人森下佐彦さん、その保存食を伝える会の会長さんでもありまして。

若狭のソウルフードとも言える“その食べ物”のお話しをお伺いしました。





 

 



森下「元々は魚が獲れない冬場の保存食として作られたのが始まりです。

生の魚を冬場に食べられるようにね。

鯖を開いて綺麗に水洗いして、血合いを取って、そこに雪が降ったかの様に塩を振るんです。

真っ白になるまで塩を振ってそれを樽にぎゅっ~と並べて上から重石を乗せます。

10日前後でしょうか。すると鯖から醤が上がってきますので、それを取って、

鯖に糠を入れてまた漬けこむんです。」





 

 

 

 

 

 

その状態でおよそ1年漬けこまれた保存食が『へしこ』です。

フグや鯵、鰯でも「へしこ」は作れるそうですが、やはり脂の乗った鯖が一番人気があるとか。

 




 

 

 

 

森下「昔からこの辺りは魚が沢山獲れてね。

私が子供の頃はカマスやアオリイカを串に刺して軒先で焼いていたんです。

いやぁ、なんとも言えない良い香りがしてねぇ…(笑)

“へしこ”の文化はそれこそ分からないくらい昔からあります。

諸説あるみたいですが、江戸時代の中期にはもうあったとか。

米糠のルーツも東南アジアですから、そこから中国に伝わって日本に伝わったのかなぁ、と。」

 

 

ちなみに「へしこ」という名前の由来は、

樽に鯖が漬け込まれる様子が「押し合い、圧し(へし)合い」されているので、

その「圧し合い」「へし」から『へしこ』になったとか。

新鮮な若狭の鯖から作られる伝承の味、しっかりと頂いてきましたよ~!





 

 



少し炙って食べるとより美味しいとの事で、ちょい炙りを出していただきましたが…。

もちろん保存食なので塩気は強いものの、噛みしめるとじゅわっと溢れる鯖の旨味、

そして一年という長い期間に醸し出された深い味わいがなんともたまりません!!

 

 

森下「へしこは発酵食品ですが、おじいさんからは、

“重石の重さと塩の量はけちるな”

と言われました。」

 

 

なんでも重石の重さは100kg程にもなるんだとか!?

そして「へしこ」を美味しくするには「季節」も関係があるんだそうで。

 

 

森下「へしこは一年置いておくんですが、

基本的には6、7、8月の暑い時期を越さないといけません。

気温がぐっと上がる事によって発酵が進んで旨味が増すんです。」

 

 

暑い季節を乗り越えた「へしこ」だけに備わるUMAMI

もはや「へしこ」は「HESHIKO」である(謎過ぎる)。

そしてそして、もう一つの鯖を使った保存食が「なれずし」であります。

 

 

森下「へしこを洗ってから米麹をまぶして、置いておきます。

今度は期間も短く、重石もそんなに重くなくて大丈夫です。」

 

 

麹の働きによって甘みも加わり、更に身も柔らかくなって完成する「なれずし」。

白い御化粧をした鯖はなんとも優雅に映ります。





 

 



うん、ひと口食べるとその「UMAMI」が溢れるよね(もういいって)。

しかも小浜の鯖の立派なことと言ったら、あーた!

近年ではいつでも新鮮な鯖が食べられるように、

鯖の刺身が食べられるようにと「鯖の養殖」も始めたんだとか。

森下さん曰く、鯖のお刺身は最高だよ!とのこと。

〆サバでしか口にした事がない方も多いと思いますが、

鯖の季節にここに来れば、美味しい刺身も食べられちゃう!

更に10月29日、30日には「やっぱり鯖が旨い。」をテーマに、

『2016鯖サミット in 若狭おばま』が開催!

鯖まみれの2日間になる事間違いなしです!

 

因みに佐助にお世話になったKIKI-TABI一行。

翌朝の朝食では鯖の塩焼を出して頂いたのですが、

それが驚きの「一尾丸ごと塩焼」!!!





 

 



いやぁ、鯖をしっかりたっぷりと堪能させて頂きました!!

(朝から御飯3膳食べたよね。)





 

 



鯖の魅力にすっかり参ってしまったKIKI-TABI一行。

我々も鯖街道を京都へ進もう、と言う事で、最後に向かったのが熊川宿

小浜から京都までの鯖街道の間にあり、かつては宿場町として栄えた場所です。

現在もかつての宿場町の風情が、映画のセットの様に残されているのですが、

その中でも元々熊川の村役場で現在は資料館になっている「宿場館」へ。

鬼瓦には「役場」と書かれているので、すぐに分かります(笑)

こちらでボランティアガイドをされている河合恭江さんにお話しを伺いました。

*きっとこちらの河合さんは晴れ女だと思います。





 

 



河合「鯖街道と呼ばれるようになる時代ははっきりしないんですが、

若狭から京都まで、この宿場を通って行ったのは間違いありません。

元々熊川宿は室町時代には40戸程の小さな村だったそうで、

将軍が御忍びでお茶会をやられていたり、

京都の隠れ家とも呼ばれていたんです。」

 

 

何とも風情ある呼び名でしょう…京都の隠れ家。

その隠れ家が、後の領主浅野長政によって交通の要と認定され、

諸役免除して宿場町となっていきます。40戸だった寒村は約200個の宿場町へ。

それでも220戸以上は増やさなかったそうですね。

当時は1000頭分の荷物が1日に入る駅として栄えたそうです。





 

 

 



河合「でもここは遊郭も無ければ本陣も無い、木賃宿だったんですよ。」

 

 

しかし鯖街道の重要な拠点だったからこそ、

豊かな町並みは今も残されているのであります。

京都人が「若狭道(わかさみち)」と呼び、

若狭人が「京都道(きょうとみち)」と呼んだ若狭街道。

今も残る歴史の風情に、在りし日の姿を想像してみてはいかがですか?





 

 



若狭ブランドを堪能した今回の旅。

実はここから先の季節、この地はカニやフグで活気づくのです!!

今でも十分、食のブランド力を思い知ったというのに!(笑)

これ以上まだ楽しいブランドが待っているだなんて…。これはもう、また来るしかないっ!

どうしても京都の魅力ばかりがフォーカスされがちですが、

平安の昔から京都の文化を支えた若狭の様な土地があったからこそ、

京都の文化は花開いたわけです。

これから2020年に向けて、日本人ももっと深く日本文化を知らなくてはいけません!

であれば当然、日本各地にあるこうした町の文化・歴史を知っておかないと!

そして「HESHIKO」の「UMAMI」も知っとかないと(だから)。

 

そうそう、取材以外の所でも魅力的な景色は沢山あったのです。

エメラルドグリーンに輝く海の色、水平線に沈む夕日。

砂浜ではしゃぐ爽やかなカップル…(遠い目)。楽しかったなぁ…。

あっ、おーい、あの時のカップルやーい!

永尾さんに撮って貰った写真、結婚式で使う様な時は連絡よこすんだぞ~!